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2013年8月3日土曜日

『風立ちぬ』を観てきた。


 最初に感想を。
 良かった。面白かった。宮崎駿監督の作品の中でも、群を抜いて好きだ。でも共感はできなかった。
 エンタメ作品としては失格だけど、多分、監督はエンタメにする気がなかったと思われる。
 恐らく、今まで築いてきた地位を蹴り壊す気だ(もっと早く蹴り壊して欲しかった)。
 以下よりネタバレ全開で書くつもりなので、嫌な人は読まないで下さい。


 映画が始まって、ずっと違和感がつきまとってた。
 最初の違和感は、二郎が夢から覚めたところ。墜落して目覚めるのだから「身体がビクッてなるかな」と思っていたら、そんなことはなかった。
 シーンがとにかく飛び飛び。場所はもちろん、時間経過もよくわからない。
 このあたり、宮崎監督っぽくない。二郎を「常人ではない」風に描こうとして、こんな手段をとっているのかも……と思ってた。でもそんな手法で撮られた宮崎作品は見たことがなかったので(書いてて自信がなくなってきたけど)、映画が始まってからずっと宮崎駿監督の正気を疑っていたんだけど、いや、最後の方でやっと納得しました。
 二郎やカプローニは、気が狂ってる。
 そして宮崎監督は、彼らが狂気を自覚しているものとして映画を撮ってる。
 男たちの正気を疑ってしまうような映像は、いたるところに配置されている。
 とても飛ぶとは思えない巨大な旅客機(実際に飛んだらしい!)とか、片言の日本語で喋るカストルプの表情とか(他の外国人に流暢な日本語を喋らせて彼だけ片言なのは普通じゃない)、いつまで経っても妹のスケジュールが覚えられない二郎とか。まあ、色々。
二郎たちが自覚していると確信したのは、ラストの夢の国での二郎とカプローニの会話。
 「ここは最初にお会いした草原ですね」
 「われわれの夢の王国だ」
 「地獄かとおもいました」
 「ちょっとちがうが似たようなものかな」
 しかもこの会話をしている間、二郎の顔はカメラの方を向かない(確か……)。
 果たして宮崎駿監督は、彼らに共感して欲しいと思ってこの映画を創ったんだろうか。
 なんだか登場人物が「本音ではないセリフを言っている」ようなところもいくつかあった。
 そのへんは絵コンテを読み込んで考えたい。

 さて。
 二郎は純朴な男なのか?
 天然男なのか?
 戦争の道具を造っておいて、自分は素晴らしい飛行機が造りたかっただけだと、胸を張って言うような男なのか。
 少年時代、二郎が悪ガキに絡まれている子どもを助けるシーン、そしてそのあと、母親に堂々と「転びました」と嘘をつく。
 大人になっても、腹が空いている待ちの子どもにご飯を渡そうとして、逃げられてしまう。
 偽善か。偽善だな。でも彼は、自覚しているはずだ。
 二郎の飛行機は美しい出来だったけど、「一機ももどって来ませんでした」。
 多分、二郎を天然として描くなら、このセリフは入れなかったと思う。
 二郎は自覚してる。
 自分は気が狂ってる。戦争の道具を嬉々として造った。妻の命と自分の仕事を天秤にかけた(ここは男尊女卑的な描写が気になったけど、あの頃の日本を考えれば――少なくとも聞いた話では――変な描写ではないので、目をつむってもいい)。
 なので、僕は二郎が自分の行いを自覚していると思った(そっちの方がタチ悪い気もするけど)。

 問題は、宮崎監督が彼ら(映画のキャラとしてね)の行為を肯定しているのかどうか……わからない。
 劇場で観ていて、ちょっと気を許すと二郎に同調・感動しそうになるのを止めるのが大変だった。
 間違いなく、僕はこの『風立ちぬ』が好きだ。自分の汚い部分を取り出して「ほうら」と見せられた気分。
 でも世間様に胸を張って「『風立ちぬ』が好きです」とは言いにくい(いや、もう書いたか)。
 なのでこっそり胸の中にしまっておきたい。

 監督の飛行機は戻ってきたのだろうか?

 最後に。
 宮崎駿監督の絵コンテ、初めて買いました。これは良い物ですね。
 本屋さん、頑張って売って下さい。
 他の商品と一緒に棚に並べて下さい。
 絵コンテだけ倉庫にしまわないで下さい……(買いに行った本屋では返品寸前だった)。

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